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セラピストの「コントロール」

カウンセリングやセラピーをして、ある程度経験が出来てくると、クライアントさんの話を最初に数十分聞いただけで、「このクライアントさんの問題の『原因』は、ここにあるな」とある程度予測できるようになってくることがあります。

たとえば、恋愛やパートナーシップの問題で悩んでおられるクライアントさんの話を聞いていると、その根本には「親との関係」が深く関係していることが見えてくるようになる、といったことです。

もちろん、それはそれで決して間違いではありませんし、とても大切なことなのですが、セラピストなりカウンセラーの側がそのことにあまりにとらわれると、今度はそれが「思い込み」になり「囚われ」や「決め付け」になってしまうことがあるのです。このような経験はセラピストとしての経験がある方はほとんど持っていて心当たりがあるのではないでしょうか。

確かに、彼氏との関係がうまくいかない原因には父親との関係が関係していることが多くて、まずそこにある「ほつれた糸をほぐす」作業はとても大切なのですが(そのことが必要ないといっているのではありません)、セラピスト側がそう思った瞬間には、その「気づき」に囚われてしまう危険性が同時に起こってくるということです。

ですから、常にそういう「危険性」と背中合わせにいるということを意識していないと、クライアントさんのほうが「私は彼氏との間の関係について相談に来たのに、あまり言われたくない父親との事ばかり指摘された」といった不満になったりすることがあるのです。
セラピスト側が、いくら「クライアントさんのために」と思ってしていることでも、実は結果としてクライアントさんを「コントロール」していることになるのです。

もちろん、だからといって「彼氏との関係」だけに限定してしまうと、本当の意味での「解決」には至らない場合もあります。クライアントさん自身が意識していない部分にも触れて、より根本的な解決へのサポートは必要なのだと思います。大切なことは、今のクライアントさんにとっての「一番気になる問題」について敬意を持って接するということだと思います。


と、自分で書いてみてあることに気づきました。

今、「解決」と書きましたが、誰が「解決する」のでしょうか?
クライアントさんの抱えている「問題」の本当の答えを知っているのは誰なのでしょうか?

ある程度経験も出来て、実績も積み上げてくるとセラピストのほうに「私のカウンセリングで、解決できた」という意識が生まれてくることがあります。この意識は実はとても危険だと、私は思います。そう言っている私自身ですら、上に書いた文章には、どこか「セラピストがクライアントさんの問題を解決する」という意識の「におい」のようなものが感じられます。

私自身、「クライアントさんの持っている『問題』の真の答えはクライアントさん自身の中にある」と思っていますし、セラピストはその答えに至る道のサポートをさせてもらっているだけだと意識しているにも関わらず、潜在意識の中にはどこかで「自分がクライアントさんを『治してあげた』」という気持ちがあるのかもしれません。

そこまでではなくても、「クライアントさんの悩みはぜひとも解決してあげたい」「なんとかしてクライアントさんには良くなってもらいたい」という気持ちはセラピストであればみな持っているものでしょう。しかし、この気持ちでさえ、いつも意識していないと「結果として、クライアントさんをコントロールしてしまう」危険性が付きまとっていると思います


通常のセッションではセラピストとクライアントは、言い方は適切ではないかもしれませんが「上下関係」で見られることが多いのではないかと思います。つまり、治す側と治してもらう側。相談する側と相談されて答えを見つける側t、といった感じです。

しかし、この「セラピストとクライアント」の関係を、個人どうしとしてではなく、「場」や「関係性」としてみると、違った見方をすることが出来ます。
つまり、セラピストもクライアントも、クライアントさんがその場に持ってきた「問題や悩み事」を通じて、対等な関係性にある。そして、その「問題」を通じてそれぞれが、それぞれの学びや気づきをすることが出来る。
という味方です。プロセス指向心理学ではこれを「関係性のチャネル」と言われたりします。
クライアントさんとセラピストがひとつの時間と空間を共有することでひとつの「場」が出来、その「場」にクライアントさんが「ある問題」を持ち込むことで、その場にふさわしい「プロセス」が進行する、と言い換えても良いかもしれません。

そういう、「関係性のチャネル」から見ると、セラピストがクライアントさんを、結果として「コントロール」してしまったという「結果」も、セラピストの内面にある「コントロール欲求」に気づくプロセスであったと言うことが出来るのかもしれません。
つまり、そういう「セッション」というひとつの場を共有できたことで、セラピストが「自分の中にはまだまだクライアントさんをコントロールしてしまう何者かがあるんだなぁ」と気づくチャンスを持つことが出来たということです。

セラピストというのは、決してすべての問題を解決してクリアーになった「神様」ではありません。100%問題を解決できていなければ、セラピストになれないわけでもありません。
自分の内面を見ればまだまだ沢山の「未消化な感情や、未解決の問題」があるかもしれません。しかし、だからこそクライアントさんに寄り添うことが出来るということも言えます。そして、クライアントさんとひとつの場を共有することで、さらに自分の内面に残っているいろいろな感情や信念に気づくことが出来、成長することが出来るのだと思います。



*このトピックと同じ内容はアメブロでも読んでいただくことが出来ます。
http://ameblo.jp/sna10826/
アメブロの方では、過去にこのブログで掲載した内容を元に、私が今感じることを追加して再掲載しています。


我儘な人と親切な人とではどちらが幸せか?

世の中には、自分のことばかり考えて、いわゆる「自己中」と言われる人から、いつも人のことを考えて親切な人まで色々な人がいます。

僕たちが何の疑問も持たずに持っている「尺度」からすれば、前者の人は「悪い人」で、後者の人は「良い人」ということになるのではないでしょうか。そりゃそうですよね、我儘な人よりも、親切な人のほうが「素敵な人」なのに決まっていますよね。。。

では、そういう我儘な人にはいつも「罰が当たり」、親切な人には「良い事ばかり起こる」のかというと、現実はどうもそうではないようです。逆に、我儘な人がうまく人生をすりぬけ世渡り上手で、親切な人が泣きを見るということも多いというのが、僕たちの持っている印象かもしれません。

人生ってなんて不公平なんだ!
この世の中には神様はいないのか!


と嘆きたくなるような経験をされたかたも多いのではないでしょうか。


しかし、ここで最初の「尺度」に戻って考えてみると、別な一面が見えてきます。
そもそも、「良い人」とか「悪い人」とかは何を基準に区別されているのでしょうか?ひょっとしたら、この「良い・悪いという区別」と、結果として起こってくる「幸」「不幸」とは全く無関係なのかもしれません。
無関係なものを関係あるものとして錯覚した結果が、上の「人生は不公平」「この世の中には神様なんていない」という嘆きになっているのかもしれません。

そうなのです。「良い人」であるとか「悪い人」であるとかと「幸せ」「不幸せ」とは、実は全く関係がないと言っても過言ではないのです。

例えば、周りからはとても親切で、人気者である人がいるとします。いわゆる「良い人」ですが、その心の中を覗いてみると別な一面が隠れていることがあります。

例えば、自分はこうしたいと思っていても、周りの人が違うことをしようと言ったときに自分の意見を言えないという人は案外多いのではないでしょうか。その時の気持ちをちょっと意識して感じてみると、「自分の意見を言うと、みんなから仲間はずれにされそうな気がする」とか、「みんなと違う意見なのは、きっと自分が間違っているからだ」というような感覚が起こってくるような場合があります。


ちょっと難しい表現をすると、人に対していつも気を使ったり親切にしたりすることによって、『自分の存在価値を証明』しようとしているという風に言うことが出来るのです。
つまり、私たちは自分のありのままであることが一番楽で、自然で幸せでいることが出来るのですが、ありのままである自分自身に対して「価値がある」という感覚が持てないということです。「自己価値感が低い」という表現がされることもあります。
この、『低い自己価値』の原因にはいろいろな事がありますが、それはともかく「低い自己価値」が根元にある「親切」は、自然のありのままの「親切」とは違ってどこかに「しんどさ」や「苦しさ」を伴うのです。

ここは大切なところで、「親切な人は自己価値が低い」ということではありません。人に親切にしている、あるいは出来るということと自己価値とは「関係がない」と言うことを言いたいのです。

ですから、逆に「わがままで自由勝手にふるまう人」も同じです。本当に自分自身を肯定する感覚を持って生きている人もいれば、「自分の周りはすべて自分の敵だ」みたいな感覚で我儘にふるまう人もいます。

親切な人が幸せになるわけでも、不幸せになるわけでもなく
我儘な人が幸せになるわけでも、不幸せになるわけでもない


ということです。ですから、「良い人が幸せになって、悪い人が不幸せになる」なんていう『法則』は、最初からないのです。

じゃあ、どういう人が幸せになれて、どういう人は不幸せになるのか?
という疑問が起こってくるかもしれません。

答えは、「幸せであるとか、不幸せであるとかは、『なる』というものではない」と言うことだと思います。
『なる』というのは、「何かの条件が整えば」ということを意味しています。

仕事が順調にいけば、幸せになれる
お金持ちになれば、幸せになれる

病気になると、不幸せになる。
好きな人と別れると、不幸せになる。

といった具合ですね。

しかし、幸・不幸というものは、「幸せになるためには。。。」とか「不幸せになるのは。。。」という『条件』で決めることが出来るものではないのです。だって、いくらお金が沢山あっても不幸せな人もいますし、病気をしていても幸せな人はいます。

幸せを感じている人が幸せな人であり
不幸せを感じている人が不幸せなのです。

なんだか、禅問答みたいですか?
では、こういう表現ではどうでしょうか。

自分自身をありのままで認めて受け入れることのできる人が幸せな人であり、
自分自身のありのままを受け入れることが出来ない人が不幸せな人である

これではどうでしょうか。

つまり、ありのままの自分を認めた結果として、親切であったり、我儘であったりする人はそのままで「幸せな人」でしょう。
逆に、ありのままの自分に「価値がない」とか「罪悪感を感じたり」とかして、自分以外の何者かになろうと努力したり、心を閉ざしたりしている人は、そのままで「不幸せな人」でしょう。



唯一、「幸せになるための方法」があるとするならば、幸せは「なる」のではなく、「ある」ものだということに気づくことではないかと思います。

ありのままの自分を受け入れて、自分が幸せだと感じれない人は、自分を「価値がない存在だ」と感じさせるものが何なのかに気づくことが出来れば、「幸せになるための道」が開けてきます。

本来、私たちは一人の例外もなく「ありのままで幸せな存在」であったはずなのですが、その道を忘れてしまっているだけなのです。だから、それを思い出しさえすればいいということです。幸せになれない人は一人もいないのです。




探すのをやめたとき愛は見つかる

ある本を読んでいて、前回書いたブログのトピックスに関係するような文章に出会いました。
とてもすばらしいと思ったので、ここにシェアしたいと思います。


私たちは、だれかを喜ばせたり、何かを手に入れたり、それを維持したり、誰かに影響を与えたり、コントロールしようとして何かを言ったりしたりする。その原因は「恐れ」であり、その結果は「苦痛」だ。相手を操作しようとすることは、自分を相手から切り離すことになる。それはつらいことだ、人があなたのことをその瞬間に完全に愛していても、あなたはそれに気づくことが出来ない。恐れから行動すると、愛を受け取ることが出来ない。なぜなら、愛のために何をしなければならないかという考えにばかり囚われてしまっているから。ストレスフルな考えはすべてあなたを他の人たちから切り離してしまうのだ。


        「探すのをやめたとき、愛は見つかる」(バイロン・ケイティー) 46ページ~


人に愛されることが必要だと考えると、私たちはどうするだろうか。二兎に認めてもらうために奴隷になるだろうか。認められなかったらどうしようという考えに耐えられないため、正直でない人生を送るだろうか。人があなたにどういう人になって欲しいと思っているのかを探り当てようとするだろうか。そして、そうなろうとするだろうか。実は、このようなやり方では、決して人に本当に愛されることはない。あなたは自分とは違う人間になろうとし、そして人が「愛している」というと、それを信じることが出来ない。あなたが「ふり」をしている人を。他人の愛を求めるのは難しい。命取りになる。愛を求める中で、あなたは何が本物かを見失ってしまう。これは、私たちが、すでにもっている愛を得ようとして、自分のために作り出した牢獄なのだ。

                同上   64ページ



自分で意識することは普通はあまりないのですが、わたしたちは自分の持っている「思い込み」や「決め付け」で「自分の生きている世界」を創っています。たとえ、他の人から見たらまったく理解できないことであっても、その本人にとってはその世界は「絶対的な真実」な世界です。そういった、一切の「思い込み」や「決め付け」がない世界は、この世界には存在しないといっても過言ではないと思います。

わたしたちが生きているこの「世界」は、自分というフィルターを通して感じられるのですから、フィルターを通さない世界は理屈の上でしか存在しないのですね。ですから、この「思い込み」や「決め付け」自体が悪いのでもなんでもないのです。大切なのは、このフィルターを通して作り出している「自分の生きている世界」が自分にとって、楽しいのかそれとも苦しいのか、あるいは「快」か「不快」か、そのいずれなのかということではないでしょうか。(つまり「正しい」か「正しくないか」ということではない、ということでもあります。)

上に引用したバイロンケイティーのワークでは、自分の生きている世界を作り出している「思い込み」や「決め付け」を再構成することで感じる世界、生きる世界がどのように変わるのかを体験することが出来ます。
自分の生きている、感じている世界を変えようとするのではなく、自分の生きている世界を作り出している「思い込み」や「決めつけ」が変わったときに、感じられる世界がどのように変わるのかを実感できるということです。


バイロンケイティーワークについては、私もまだまだ勉強中ですが、こちらのサイトで詳しく知ることが出来ます。



プロフィール

小西 康弘

Author:小西 康弘
京都大学医学部卒業。天理よろづ相談所病院などで内科全般を研修し、消化器内科を専門とする。内科専門医。

内科医として約20年病院勤務をしてきましたが、西洋医学の範疇だけでは、とても患者さんの肉体的問題に対して対応できないとその限界を痛感しています。
肉体的な問題の奥底には心理的、精神的な問題が隠れていることが少なくありません。表面に出てくる肉体的な問題は原因ではなく結果で在る事が多いのです。
トランスパーソナル心理学の各手法や、ヒーリング方を勉強中。
シーターヒーリング・プラクティショナー

このブログでは西洋医学だけでなく代替医療やその他の補完療法についての私の考え方や、いろいろな情報を書いていきたいと思います。


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