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お引越しのお知らせ

このブログは

ドクターこにぃの『統合医療情報局』として下記のアドレスに順次引越ししていきます。
新しいトピックは今後すべてこちらになりますので宜しくお願いします。

http://ameblo.jp/sna10826/


なお、過去のトピックはこのまま読んでいただくことが出来ます。
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我儘な人と親切な人とではどちらが幸せか?

世の中には、自分のことばかり考えて、いわゆる「自己中」と言われる人から、いつも人のことを考えて親切な人まで色々な人がいます。

僕たちが何の疑問も持たずに持っている「尺度」からすれば、前者の人は「悪い人」で、後者の人は「良い人」ということになるのではないでしょうか。そりゃそうですよね、我儘な人よりも、親切な人のほうが「素敵な人」なのに決まっていますよね。。。

では、そういう我儘な人にはいつも「罰が当たり」、親切な人には「良い事ばかり起こる」のかというと、現実はどうもそうではないようです。逆に、我儘な人がうまく人生をすりぬけ世渡り上手で、親切な人が泣きを見るということも多いというのが、僕たちの持っている印象かもしれません。

人生ってなんて不公平なんだ!
この世の中には神様はいないのか!


と嘆きたくなるような経験をされたかたも多いのではないでしょうか。


しかし、ここで最初の「尺度」に戻って考えてみると、別な一面が見えてきます。
そもそも、「良い人」とか「悪い人」とかは何を基準に区別されているのでしょうか?ひょっとしたら、この「良い・悪いという区別」と、結果として起こってくる「幸」「不幸」とは全く無関係なのかもしれません。
無関係なものを関係あるものとして錯覚した結果が、上の「人生は不公平」「この世の中には神様なんていない」という嘆きになっているのかもしれません。

そうなのです。「良い人」であるとか「悪い人」であるとかと「幸せ」「不幸せ」とは、実は全く関係がないと言っても過言ではないのです。

例えば、周りからはとても親切で、人気者である人がいるとします。いわゆる「良い人」ですが、その心の中を覗いてみると別な一面が隠れていることがあります。

例えば、自分はこうしたいと思っていても、周りの人が違うことをしようと言ったときに自分の意見を言えないという人は案外多いのではないでしょうか。その時の気持ちをちょっと意識して感じてみると、「自分の意見を言うと、みんなから仲間はずれにされそうな気がする」とか、「みんなと違う意見なのは、きっと自分が間違っているからだ」というような感覚が起こってくるような場合があります。


ちょっと難しい表現をすると、人に対していつも気を使ったり親切にしたりすることによって、『自分の存在価値を証明』しようとしているという風に言うことが出来るのです。
つまり、私たちは自分のありのままであることが一番楽で、自然で幸せでいることが出来るのですが、ありのままである自分自身に対して「価値がある」という感覚が持てないということです。「自己価値感が低い」という表現がされることもあります。
この、『低い自己価値』の原因にはいろいろな事がありますが、それはともかく「低い自己価値」が根元にある「親切」は、自然のありのままの「親切」とは違ってどこかに「しんどさ」や「苦しさ」を伴うのです。

ここは大切なところで、「親切な人は自己価値が低い」ということではありません。人に親切にしている、あるいは出来るということと自己価値とは「関係がない」と言うことを言いたいのです。

ですから、逆に「わがままで自由勝手にふるまう人」も同じです。本当に自分自身を肯定する感覚を持って生きている人もいれば、「自分の周りはすべて自分の敵だ」みたいな感覚で我儘にふるまう人もいます。

親切な人が幸せになるわけでも、不幸せになるわけでもなく
我儘な人が幸せになるわけでも、不幸せになるわけでもない


ということです。ですから、「良い人が幸せになって、悪い人が不幸せになる」なんていう『法則』は、最初からないのです。

じゃあ、どういう人が幸せになれて、どういう人は不幸せになるのか?
という疑問が起こってくるかもしれません。

答えは、「幸せであるとか、不幸せであるとかは、『なる』というものではない」と言うことだと思います。
『なる』というのは、「何かの条件が整えば」ということを意味しています。

仕事が順調にいけば、幸せになれる
お金持ちになれば、幸せになれる

病気になると、不幸せになる。
好きな人と別れると、不幸せになる。

といった具合ですね。

しかし、幸・不幸というものは、「幸せになるためには。。。」とか「不幸せになるのは。。。」という『条件』で決めることが出来るものではないのです。だって、いくらお金が沢山あっても不幸せな人もいますし、病気をしていても幸せな人はいます。

幸せを感じている人が幸せな人であり
不幸せを感じている人が不幸せなのです。

なんだか、禅問答みたいですか?
では、こういう表現ではどうでしょうか。

自分自身をありのままで認めて受け入れることのできる人が幸せな人であり、
自分自身のありのままを受け入れることが出来ない人が不幸せな人である

これではどうでしょうか。

つまり、ありのままの自分を認めた結果として、親切であったり、我儘であったりする人はそのままで「幸せな人」でしょう。
逆に、ありのままの自分に「価値がない」とか「罪悪感を感じたり」とかして、自分以外の何者かになろうと努力したり、心を閉ざしたりしている人は、そのままで「不幸せな人」でしょう。



唯一、「幸せになるための方法」があるとするならば、幸せは「なる」のではなく、「ある」ものだということに気づくことではないかと思います。

ありのままの自分を受け入れて、自分が幸せだと感じれない人は、自分を「価値がない存在だ」と感じさせるものが何なのかに気づくことが出来れば、「幸せになるための道」が開けてきます。

本来、私たちは一人の例外もなく「ありのままで幸せな存在」であったはずなのですが、その道を忘れてしまっているだけなのです。だから、それを思い出しさえすればいいということです。幸せになれない人は一人もいないのです。




人をサポートする人が癒されるために

このブログは以前に書いた「統合医療」に関連するブログに加筆訂正したものです。


東洋医学や代替医療などの勉強をしていると、「自然治癒力」という言葉が良く出てきます。身体が本来もっている、自分で治す力をサポートしていこうと言う考え方です。症状そのものに対して治療するのではなく、自分自身の病気を治す力を高めるための治療を行います。
それに対して、現代医学、西洋医学はどちらかというと出てきた症状に対する治療を行います。これは「対症療法」と呼ばれます。

「対症療法」の一番わかりやすい例は、発熱が見られたら解熱剤を処方し、感冒症状があれば感冒薬を処方して「治療」します。本当は、症状を抑えているだけで、体の自然治癒力を引き出しているわけでも、根本原因に対する治療をしているわけではありません。感冒と言うのは、ウイルス感染症なわけですがウイルスの感染を治療する薬と言うのは、(一部の例外を除いては)ないのです。感冒薬と言うのはウイルスを駆除しているのではなく、単に症状を抑えるだけの薬なのです。


一方代替医療では、身体に現れる症状は全身のバランスが乱れたときに現れるものであると説明されます。ですから、治療方法としては、崩れたバランスを元に戻すことによって「自然治癒力」を高めることが重要になります。自然治癒力がもとの状態になれば、病気は自然と治るというわけです。
例えば、熱が出るのは、そのことによって体のバランスをとろうとする「体にとって必要なこと」である、と考えるのでむやみに発熱を抑えてしまうことはしません。薬の投与でその発熱を抑えてしまうことは、『治癒』を遅らせることになると言う考え方です。


私はその考え方自体はとても優れたもので、間違ってはいないと思います。ただ、38-9度の発熱で受診されて、うんうんうなっている患者さんに対して、「これは身体が必要としていることだから、様子を見ましょうね」と言うのは、かなり勇気の要ることです。また、その言葉の意味を本当に理解してくださる患者さんも少ないのではないかと思います。
きっと、「あそこのお医者さんは、熱が出て行ったのに、何もしてくれなかった」という評判があっという間に立つでしょうね。


高熱で、しんどくてうんうんうなっている患者さんに対しては一時的にでも解熱剤を使ってあげる。それほどの高熱でもなくて、食事をちゃんと取れているようなら余計な薬は出さないで様子をみる。そのときに、ちゃんと患者さんの意思を確認して行う。そのことが大切じゃないかと思います。

つまりは、西洋医学と東洋医学・代替医療との間のちょうどいいところをバランスよく取り入れると言うことが重要だと思います。どちらが正しくて、どちらが間違っていると言う単純な問題ではないのです。

ここに、「統合医療」を広めていく上での難しさのひとつがあると思います。

ある一人の患者さんを前にして、立場や考え方の違う(いろいろな手技や技能を持っている)治療者が、その患者さんに一番適している「癒し」を提供するということは決して簡単ではありません。
単に、西洋医学と代替医療をひとつの場で提供できるというだけではなく、一番適した方法を横断的に提供するということが重要です。それぞれの治療者が、ばらばらに自分のできる事をやっているのでは「統合」の意味がないからです。このことは、言葉で言うのは簡単ですが、容易ではありません。

場合によっては、一人の患者さんや症状、病気をめぐって論争になったり対立が生まれる可能性があるのです。論争や対立になってしまうのでは、本当の「統合」という言葉の意味がないに等しいのです。では、どうすれば立場や考え方の違ういろいろなセラピスト、施術家、医療者が患者さんやクライアントさんのために協力し合っていくことができるのでしょうか。

私は、すべての「論争や対立」の原因は、表面に現れる事象が本当の原因ではなく、結果に過ぎないと思っています。そして、治療者側の潜在意識にある、「気づいていないけれども癒されていない部分」が本当の原因であると思っています。表面的に現れた対立についていくら議論しても解決点は見出されないだろうと言うのが、私の考えです。自分の心の内面に本当に向き合っている人は、自分と考え方や治療方針が違っても、決して「対立」することにはならないからです。

いろいろな立場の治療者が、本当の意味での「協力関係」を築いていくためには、まずは治療者自身が自分自身の内面に向き合い、癒されていない部分に気づくことがとても重要であると思います。「人」を集めただけ、あるいは「人を入れる器」を用意しただけでは本当の「統合医療」は生まれないと私は思っています。
そのためには、治療者が別の治療者の「癒し」を受けることができて、お互いがお互いの「気づき」に強力し合えるような場の設立が必要だと思っています。言い換えると、「治療者の学校」といっても良いかもしれません



来年の7月に、名古屋で医療者や看護職、援助職そして、教育関係の仕事をしている人を対象としてワークショップを開催する予定です。まだ、具体的にどのようなワークショップにするのかは相談しているところですが、多くの人とをサポートする立場の人が少しでも自分の心の内面を知って、本当の意味で人をサポートできるようになる「気づきの場」を提供出来たらいいなあと思っています。


総合診療と統合医療との違いについて

先日、ツイッターの方で「総合診療」と「統合医療」とはどう違うのでしょうかという質問をいただきました。もっともな質問だと思います。自分たちだけでは分かっていても、いままでそういうことを聞いたことのない方にとっては、どういう違いか分からないと思います。

そこで、今日はその説明とともに私の感じるところを書かせてもらおうと思います。


「総合診療」とは、「専門診療」と対比して位置づけられる診療科です。専門診療というのは呼吸器内科とか循環器内科、あるいは整形外科、心臓外科と言ったように特定の臓器の特定の疾患だけを専門的に扱う科です。医者と言ってもすべてを網羅して治療できるわけもなく、それぞれの医者が一番得意な「専門分野」を持っているのです。
それが、あまりにも専門細分化されてしまって自分の専門でない分野については基本的な治療も出来なかったり、あるいは「そんなのは自分の専門外だから、別の所にいってくれ」みたいな雰囲気が生まれてきました。そういうあまりにも専門科しすぎた医学傾向に対する反省として生まれたのが「総合診療科」というものです。

総合診療医学会のホームページ

たとえば、私の専門とする『内科』でも大きく分けると6つくらいの「専門内科」に分けることが出来ます。私が大学を卒業した頃は、「総合診療」という概念がまだまだ拡がっていなくて、卒業すると同時にどこかの「専門科」に所属して、他の分野の疾患を見ることがあまりないということが起こっていました。自分の専門とする分野以外の疾患は、大学を出てから一般病院に赴任して初めてみるというようなこともあったのです。


もうひとつ、「総合診療」が必要とされる大きな理由のひとつが、慢性疾患とか生活習慣病といわれる病気は並存して起こることが多く、それぞれ別々に掛かっていたのでは患者さんを総合的に見ることが出来ないということがあげられます。
たとえば、糖尿病や高血圧症、高脂血症などの病気をいくつか持っておられる患者さんが多いのですが、糖尿病や高脂血症は内分泌内科(糖尿病外来)、高血圧は循環器内科などと別々に掛かって別々に薬を出したり検査されたのでは、サービスの効率も悪く資源の無駄になります。それよりも、一人の医者が全部を含めて総合的に見たほうが良いに決まっているのです。

以上のような経過で「総合診療」が見直されてきたのです。ここで誤解してはいけないのは、だからと言って専門診療が必要がないということではないということです。専門科は専門科として、一般の医療レベルでは対応が困難が疾患や病態に対して、絶対に必要なのです。

たとえば糖尿病を例に挙げると、糖尿病には1型糖尿病と言う若年で発症しとてもコントロールが困難で複雑なインスリン治療が必要な病態と、大半を占める2型糖尿病と言う成人発症の病態があります。2型糖尿病は一般の内科医が対応できるので、「総合診療」や「一般内科」と言われるところで治療を受けることが望ましいと思います。しかし、1型糖尿病はやはり糖尿病の専門医がみることが患者さんにとって必要だと思います。
専門の先生に見てもらいたいと言う気持ちはわかりますが、すべての糖尿病の患者さんが「糖尿病の専門内科」に受診すればそれこそ、専門内科の機能が麻痺してしまうのです。
必要なのは適切な役割分担だと思います。



一方、「統合医療」というのは、医者の中でもまだまだ十分に浸透したものとは言えません。人によっては捉えかたも違うことがあるので、私の捉えかたが絶対だと言うわけではありません。

私の考えている「統合医療」は今までのトピックにも何度か書いていますが、人間は「肉体、身体」だけを対象として診察し診断し、治療していたのでは十分ではないと言うことが根幹にあります。

心身相関と言って、人間が病気になるにはその前に心身の「ストレス」が溜まっていることが多いと言うことで、病気はその「ストレス」が溜まって起こってきた「結果」に過ぎないと言う考え方です。もちろん、結果として起こってきた病気の治療も大切ですが、その原因になっている心身の「ストレス」にも目を向けることがとても重要だと思います。

今の医学ではこの「心の部分」に目を向けることが少ないのが現状です。これからの医療はもっとそういう方面にも目を向けていく必要があるというのが「統合医療」の考え方ではないかと思っています。



「統合医療」はいろいろな切り口でいろいろな見方が出来るので、私が上に書いた説明は「統合医療の一面」でしかないことをご理解ください。「代替医療」との関係で捉えることも出来ますし、あるいは「エネルギー医療」「波動医学」などとの関係で捉えることも出来ます。
ただ、共通していると思うのは、「現代医療」や「保険診療」という今までの枠組みを越えた見方であると言うことは共通していると思います。

33年目のプロポーズ

私たち医療者は、「患者さんの病気、疾病、肉体的トラブルを解決する」という立場から、患者さんが少しでも幸せになれるように一所懸命に働いています。いや、そのはずです。

しかし、現代医療では数々の限界があることも事実です。感染症や急性疾患の分野においては確かに『解決』出来る場合もありますが、内科の分野で慢性疾患を扱うことが多く、解決とは程遠いと感じる毎日なのです。糖尿病、高血圧などなどの慢性疾患は確かに薬を内服することで血糖や血圧は下がります。口が渇いたり頭がふらついていた患者さんも薬を内服することで症状も良くなり、元気に日常生活を送れるようになります。それは、とても素晴らしいことです。しかし、一度飲み始めた薬は、基本的には一生涯飲み続けなければなりません。解決と言うよりは、症状をコントロールしている、「一時しのぎ」とも言えるでしょう。また、現代医療では治すことが出来ない病気もまだまだたくさんあり、「難病」とか「不治の病」とかいった風に表現されます。

こういったことを繰り返しているうちに、いや、おそらく医者になる教育を受けて医者になった瞬間から、私たち医療者は肉体に起こってきた「トラブル」はすべて取り除かなければいけないと思ってしまいます。そして、トラブルが取り除けなかったときには、『敗北』したと感じるのです。患者さんの病気が治って元気に退院されていく姿を見た時には『勝利感』を感じ、残念ながら病気が治らずに最期を迎えられて退院されるときには、言葉にできない『敗北感』を感じます。そういう勝利や敗北を重ねるにつれて、私たち医療者はだんだんと、敗北感を感じるということを心の奥底に押し隠すようになるのです。それは、一つ一つの敗北を心の繊細な部分で感じるということがとても辛いからです。ベールで包むことでこれ以上傷つくことを避けようとするのです。

病気を治せなければ、それは『敗北』だ

普段意識して感じることはないにしても、このようなビリーフ(潜在意識の思い込み)は多かれ少なかれ、多くの医療者が持っていると思います。患者さんが病気が治って元気になることが嬉しいという「愛の気持ち」が、いつの間からか「病気を治さなければいけない」「病気を治せないことは敗北だ」に置き換わっていってしまうのです。それにつれて、最初は愛にあふれていた心もいつの間にか、ネガティブな感情を押し殺し、時には傷つく心を守るために氷のように凍りついてしまう。。。

私自身、3年くらい前にそこで行き詰ってしまい、それまでの医者として生き続けることが苦しくなってきました。患者さんが目の前で亡くなっていく姿を見ても何も感じなくなってきたのです。それは、二つとないかけがえのない人生を終えられた人に対する気持ちではなく、まるで「ひとつの物体」を見ているような、そんな感じでした。そして、医者としてではなく、一人の人間として自分の内面を見つめると言う作業を始めた時に、上のような「信念体系(ビリーフ)」が自分の中にあったことに気がついたのです。


私は、現在岡部明美さんと一緒に「セラピスト&カウンセラー養成講座」をさせていただいていますが、岐阜県の関市で行われている養成講座の受講者さんのご主人が末期の胃癌で亡くなられました。私も、直前になってこのことを知り、「病院における医者と患者、あるいは家族」という立場ではなく、「同じ一人の人間と人間」と言う立場で少しだけ関わることが出来ました。

以下は、岡部明美さんが「日記」の中で書かれた文章の一部です。岡部さん、Kさん、雅恵さんの許可を得てここに引用させていただきます。


亡くなられたKちゃんのご主人は、関市での私の講演会に来てくださり、二年半前に癌の手術で入院するとき病室に雅恵さん(講座主催者)から貸してもらった私の本を持っていかれ毎日読んでいたとお話を伺いました。
Kちゃんのご主人は、転移が見つかり抗癌剤治療を続けましたが、主治医から「もうあなたの治療に使う薬はありません」と言われ、自宅で代替医療を模索しながらやっていました。
私は、前回の関での養成講座の後にKちゃんのご主人のお見舞に行きました。私は、Kちゃんがご主人との意思疎通、コミュニケーションがうまくいかず悩まれていたことを知っていました。

私がご自宅にお見舞に行った時、ご主人は、涙ながらに、「K子には本当によくしてもらった。世界一の女房だと思います。それなのに今までぼくはK子に“ありがとう”も“ゴメンネ”も言わず、虫の居所が悪いとK子に当たりちらし・・ケンカをすると何カ月も口をきかなかったりしてK子を苦しめてきました・・・」
ご主人はいままで自分がしてきたことをKちゃんに謝り、感謝の気持ちを伝えられました。Kちゃんは眼を潤ませて聴いていました。私はお二人の馴れ初めをお聞きしました。お見合いだったので、ご主人はプロポーズの言葉をあらためて言わなかったと言うので、「じゃあ、今言っちゃいましょうかあ」と私が笑いながら言うと、ご主人は照れながらもこう言ったのです。

「K子、ぼくは今ここで君に33年目のプロポーズをするよ。ぼくと結婚してください!」
「K子、ぼくはこの病気をなんとしてでも治して、君と一緒にお遍路したい夢があるんだ。K子、ぼくは生きるよ!生きるからね」

そう言って、ご主人はKちゃんを抱擁されました。私も見ていて涙が溢れました。Kちゃんが後で「あけみちゃん、いろいろあった夫婦だったからこそ、主人の言ってくれた言葉が涙が出るほどうれしかった。あの言葉を聞いたら今までのことなんてもうどうでもいいって思った。まさか主人があけみちゃんの前で私に33年目のプロポーズをしてくれるなんて思いもよらなかった。あけみちゃん、私今とても幸せだよ」

私は、「間にあってよかった」と思いました。ご主人は、帰り際にとても透明な表情をして私にこう言われました。それは、私自身がかつて死に直面しながら日々を生きていた時と同じ気持ちだったのでとても共感しました。

「あけみさん、ぼくはこの病気になって初めて、こうして今生きていること、生かされていることがうれしくて、なんでもないようなことがただ幸せで仕方がないんです」

あの日から2週間後にKちゃんのご主人は旅立たれましたが、いつか必ずお別れの時がくるさだめを生きている夫婦が、人生の最後にお互いの本当の気持ちを伝えあってお別れすることができて本当によかったと思いました。ご主人のKちゃんへの33年目のプロポーズは、きっと「来世も一緒になろうね」っていうことだったのかもしれません・・・。



私は、この日記を読んだ時に心が震え涙を止めることが出来ませんでした。ここには、病気を一つの「トラブル」と捉え、解決しなければそれは敗北だ、という私たち医療者の「勝手な思いあがり」を超えた、他のものには代え難い神聖な人間の姿があります。死に至る病ではあったけれど、いや、そうであったおかげで、Kさんとその御主人は繋がりなおすことが出来、33年目のプロポーズが出来たような気がします。そこには、第三者の勝手な判断や評価を受け付けない神聖さがあります。

確かに、病気は治らないよりは治ったほうがいいのかもしれません。でも、病気が治らないことが人間が幸せになれない理由にはならないのではないでしょうか。医療者側も、また患者の側もその「思い込み」を超えることが出来た時、新しい医療の形が見えてくるように感じます。
病気を持ったままでも、あるいは病気を持っていることで、病気に感謝の気持ちすら持って生きていくことが出来る。そういう関わりかたが出来る医療の形を教えてもらったような気がするのです。


プロフィール

小西 康弘

Author:小西 康弘
京都大学医学部卒業。天理よろづ相談所病院などで内科全般を研修し、消化器内科を専門とする。内科専門医。

内科医として約20年病院勤務をしてきましたが、西洋医学の範疇だけでは、とても患者さんの肉体的問題に対して対応できないとその限界を痛感しています。
肉体的な問題の奥底には心理的、精神的な問題が隠れていることが少なくありません。表面に出てくる肉体的な問題は原因ではなく結果で在る事が多いのです。
トランスパーソナル心理学の各手法や、ヒーリング方を勉強中。
シーターヒーリング・プラクティショナー

このブログでは西洋医学だけでなく代替医療やその他の補完療法についての私の考え方や、いろいろな情報を書いていきたいと思います。


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